ねこ館長日記
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一茶と善光寺⑩「酒饅頭つるや」
それおもんみれば秋風あきの露 離山神社俳額 文政三年
酒饅頭つるやは安永8年(1779)、一茶15歳、ちょうど江戸に奉公にだされたころに創業しました。ほのかに麹の風味がする、ふんわりした酒饅頭は、昔ながらの製法を伝える上品な味の一品です。
この饅頭屋の三代目(養子)の宮沢武曰(ぶえつ)(1783―1843)は、一茶と同時代に活躍した俳諧師でした。武曰は当時東北信地方でたくさんの門人を従えていた千曲市戸倉の俳諧師宮本虎杖(こじょう)(1741―1823)の高弟で、自身も善光寺門前を中心にたくさんの門人を従えました。
武曰は一茶とも親しい関係でした。文政3年(1820)に長野市松代の離山(はなれやま)神社の俳額奉納で、虎杖、その子の八朗(はちろう)とともに一茶と武曰が選者をしていたり、一茶関係の撰集に武曰の句が出てきたり、手紙のやりとりも見られます。
善光寺の東側にある城山公園内の彦神別神社付近には、武曰の句碑もあります。これは天保11年(1840)に武曰の門人たちにより建立されたものです。
※おもんみる(惟る・おもいみる)=よく考える、思いめぐらす
一茶と善光寺⑨「上原文路宅跡」
うつくしや障子の穴の天の川 志多良 文化十年
善光寺仁王門の裏手を右に折れ、300メートルほど進むと、写真の北島書店があります。ここは旧北国街道の道筋で、新町と呼ばれる地区でした。
現在の北島書店の場所は、一茶の門人で薬種商を営んでいた上原文路の家でした。また、その向かいには、文路の縁で一茶の門人となった小林反古の家もありました。文路の家は一茶が善光寺界隈を訪れる際の定宿でした。また、一茶が江戸等に手紙を出す際に取り次ぎもしています。
文化10年(1813)6月、一茶はお尻に「癰(よう)」という悪性のできものができ、痛みと高熱に苦しみました。この時一茶は文路の家で75日間にわたり寝込んでいます。一旦は死を覚悟するような病状でしたが、なんとか回復することができました。
冒頭の天の川の句は、寝込んでいる間の七夕の日に、できものから膿が出て、回復に向かった際によんだ句です。
寝込んでいる間、弟や親戚に加え、門人たちも方々から、まんじゅう、せんべい、こんぺいとうといったお菓子や、そばなどのお見舞い品を持参して駆けつけています。また、何人も医師が呼ばれ、代わる代わる一茶を診ています。とてもにぎやかな病床で、手厚い看病をうける姿からは、一茶の人望がうかがわれます。
一茶と善光寺⑧「藤屋御本陣」
心からしなのゝ雪に降られけり 文化句帖 文化四年
藤屋は江戸時代前期の慶応元年(1648)創業で、北国街道善光寺宿の本陣を務めた格式高い旅館です。
文化4年(1807)11月4日、父の遺産交渉のため帰郷した一茶は、柏原に入る前に藤屋に一泊。翌日柏原に入りますが、遺産相続をめぐる確執から村人に冷たくあしらわれ、この句をよみました。
江戸への帰路、頼みにしている門人滝沢可候に会いに行き、連れだって可候の弟、大門町の柯尺宅(こちらを参照)に泊まりました。翌日、傷心の一茶をなぐさめるためか、可候は10㎞もはなれた南原(川中島)まで一茶を送ってくれました。
プレットロ・ロマンティコ演奏会
4月25日・26日の2回にわたって、一茶記念館でプレットロ・ロマンティコによる歌とマンドリンオーケストラの演奏会が開催されました。
同オーケストラは、名古屋市を中心に活動されている団体です。実は、創始者で日本のマンドリンの大家であった中野二郎氏は、童謡「一茶さん」の作曲者でもありました。今回はその縁で、一茶記念館で演奏会をしていただくこととなりました。
現在の指揮者は、中野二郎氏のご子息中野雅之さん。今回は一茶さんに扮していただき、童謡「一茶さん」をはじめ、「ふるさと」や「牧場の朝」といったなつかしい歌唱曲や、マンドリン合奏曲などを披露していただきました。
一茶記念館の研修室は音響効果のあるホールではありませんが、それでも十二分に美しく響くマンドリンの音色と歌声に、来場した皆さんも魅了されていました。
一茶と善光寺⑦「滝沢柯尺宅跡」
雪とけて町いっぱいの子どもかな 浅黄空 文化二年
一茶の門人のひとりに滝沢柯尺(かせき)がいます。兄は、飯綱町毛野の豪農滝沢可候、弟は高山村紫の久保田家に養子に入った久保田春耕で、いずれも一茶の有力な門人・支援者です。
柯尺は、大門町にうつり住み、善光寺の寺侍として行政手腕を発揮するかたわら、松屋という屋号で酒屋も営んでいました。八十二銀行大門町支店の斜め向かいにある「門前農館」の場所が、宅跡だと言われています。一茶は善光寺を訪れるたびに、この家に顔を出したり宿泊しています。
冒頭の句は、一茶が江戸俳壇引退の記念に出版した本「三韓人」に柯尺の作品として出てきますが、実際には一茶が、自身の有名な俳句「雪とけて村いっぱいの子どもかな」を少し変えて、柯尺のために代作したものです。
一茶と善光寺⑥「世尊院」
一茶と善光寺⑤「徳本碑」
雀子も梅に口明く念仏哉 文化句帖 文化元年
徳本(とくほん)上人は「木喰(もくじき)」という、穀物を断つ一種の断食修業を行った浄土宗の僧侶で、一茶の時代に全国的に崇拝を集めていました。
文化13年(1816)4月、徳本は善光寺周辺の浄土宗の寺、西方寺、寛慶寺に滞在。信仰心の厚い一茶は、4月22日に寛慶寺に出かけていき、徳本に「十念」(南無阿弥陀仏と十回唱えること)を授かっています。 一茶は文化元年(1804)3月江戸本所の霊山寺でも徳本に十念を授かっていて、その時よんだのがこの句です。
写真の、独特の書体で「南無阿弥陀仏」と書いた徳本碑は、徳本が布教した各地につくられ、善光寺、西方寺、寛慶寺をはじめ、長野県内だけでその数は181にのぼります。善光寺の徳本碑は、本堂の西側、善光寺史料館へと向かう石畳の道の入り口にあります。
一茶と善光寺④「戒壇巡り」
かいだんの穴よりひらり小てふ(ちょう)哉 七番日記 文政元年
善光寺本堂内の階段をおりて、くらやみの中を進み、瑠璃壇の下をめぐる「戒壇巡り」。ご本尊の真下にある錠前にさわると、極楽往生が約束されるといいます。これを一茶は俳句にしました。
図は『二十四輩順拝図会』内の「善光寺朝参りの図」の一部で、戒壇の入口の様子が描かれています。枠内には「かいだん廻(めぐ)り」と記されています。同図会は、享和3年(1803)、一茶41歳の頃刊行されており、現在の戒壇巡りとあまり変わらない様子だったことがうかがえます。
しかし、天保2年(1831)作の『北国一覧写―越後・信濃・上野・武蔵』には、本堂の軒下、つまり屋外の入り口から直接入って戒壇巡りをする様子が描かれており、また、現在の戒壇は昭和5年に改造されたものと言われているため(長野市史より)、一茶が目にした戒壇巡りがどのような姿であったのかは、はっきりしません。