史跡小林一茶旧宅
柏原の国道18号線に沿って北国街道柏原宿がありました。宿場の南よりにある一茶が最晩年をすごした焼け残りの土蔵が、「国史跡小林一茶旧宅」です。文政10(1827)年閏6月1日、柏原の大半を焼失した火災で一茶も我家を失い、間口3間半(6.2m)、奥行2間2尺(4.2m)の茅葺の粗末な土蔵に移り住みました。
昭和32(1957)年国史跡に指定され、その後、昭和39(1964)年と、平成13・4年の2度にわたって解体保存修理が行われ、一茶が住んでいた当時の姿に復元されました。
また、平成12年12月には、街道沿いに一茶の弟の屋敷とされる民家が復元されました。間口4間半(8.1m)、奥行4間(7.3m)の2階造りの小さな町家です。1階には、裏庭に通じる土間と茶の間・寝間と座敷があります。一茶が亡くなったあと、旅籠や、参勤交代の宿舎になり、一茶の時代が伝わってくる建物です。
諏訪神社・一茶句碑「松陰に」
一茶旧宅から100mほど南にある諏訪神社に、一茶の三回忌に弟や門人たちによって建てられた最初の句碑があります。
高さ1.4mもある大きな句碑は、もとは柏原宿の入口にあり、明治11(1878)年現在地に移されました。[信濃町指定文化財]
松陰に寝て食う六十余州かな
明専寺
柏原宿のやや北よりに、菩提寺明専寺(みょうせんじ)があり、一茶が少年時代を思いおこしてつくった俳句の句碑があります。
我と来て遊べや親のない雀
毎年11月19日の命日には、一茶をしのんで法要が行われます。
小丸山公園
一茶記念館のある小高い丘が小丸山公園で、俳諧寺、一茶の墓や数々の句碑があります。
小丸山を少しのぼったところにある句碑は、一茶125回忌(1951年)を記念して建てられました。
是がまあついのすみかか雪五尺
50才で故郷永住を決意し、雪の故郷にたどりついてよんだ句です。
小丸山には、ほかにも一茶顕彰にかかわった人達の句碑が建っています。
俳諧寺(一茶俤堂)
明治43(1910)年、地元の一茶を慕う人々によって建てられたもので、間口3間(5.4m)、奥行2間半(4.5m)、萱葺の小さなお堂です。一茶の俳号にちなんで、俳諧寺(はいかいじ)と呼ばれるようになりました。昔の人たちは一茶にあやかって、句会を催したそうです。お堂の天井を見上げると、ここを訪ねた著名な俳人たちの作品が掲げられています。
一茶の墓
俳諧寺の裏、木立に囲まれた小丸山墓地の中に一茶の墓があります。この墓は小林家代々の墓で、一族の祖善右衛門を弔うために、孫の弥五右衛門(一茶の祖父の兄、本家弥市の祖父)が明和8(1771)年に建てたものです。
一茶はこの墓をたいへん大切にし、父の命日などには墓参りを欠かしませんでした。
一茶母の家跡
一茶記念館から2kmほどのところ、柏原仁之倉に一茶の母の家がありました。長男の一茶は、この地方の風習で産湯を実家の宮沢家で浴びたといわれています。
大正12年(1923)、屋敷内に大谷句仏上人揮毫の句碑が建てられました。
ともかくもあなたまかせの年の暮