ねこ館長日記

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俳人長谷川櫂氏が提唱する新しい一茶

9月16日、今年3回目の一茶記念館講座は、現代の俳壇をリードする長谷川櫂さんをお招きし、「新しい一茶」と題してお話いただきました。

今回ご講演いただいたきっかけは、長谷川さんが昨年発表した「新しい一茶」(河出書房 日本文学全集12)です。同書では、一茶の評価が、これまで、俳句の歴史の中で、三大俳人と呼ばれる芭蕉や蕪村に比べ一段劣るとされていることや、子ども向け、ひねくれ物の俳人で、正統の流れに属さないとされてきた位置づけを見直すことが提唱されています。

一茶は俳句の歴史における要石のような存在である。というのが長谷川さんのお考えです。近世俳諧を創った芭蕉、そしてそれを受け継いだ蕪村は、和歌の時代からの古典に精通し、古典を下敷きに俳句を作りました。

一方、庶民階層出身の一茶は、彼らのような古典の教養を当初は持ち合わせていませんでした。また、一茶の活躍した文化文政時代は、文化の大衆化が進展した時代でもありました。「近代」を大衆化の時代と捉えると、この時代、古典を知らずとも理解できる、簡単な言葉で素直な心情を詠んだ一茶の俳句は、最初の近代俳句といってよいのではないか。すなはち、俳句の近代化は一茶により始まったということになるのです。一茶俳句の特色である、誰にでも分かること、そして正確な心理描写は、近代文学の必須要素であると長谷川氏は言います。

しかし、一茶自身は、その点に無自覚で、そうした俳句を詠もうとして詠んだのではありません。大衆を導く為に、「写生」を提唱し、俳句の近代化を理論として打ち立てたのは、やはり正岡子規ということになります。

長谷川さんは、その後と現代の俳句の現状についても述べられました、子規の理論を継承・発展させた高浜虚子の死後、様々な俳人が様々な考えを主張するようになり、現在の俳壇には批評が失われてしまったため、全体のレベルが低下してしまっているのではないかということです。

虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」という分かりやすい方法論は、それゆえに弊害も多く、長谷川さんは、俳人飯田龍太の言葉「感じたものを見たものにする」をひいて、うまい俳句の作り方は、写生ではなく、逆に「ボーッとする」ことで、心に浮かんだものを掴むことだとも述べられました。

非常に中身の濃い充実した内容で、講演後は、今までに例を見ないほど質問が出るなど、大変好評な講演会となりました。